10![]() 奥州白河図(個人蔵) |
![]() 明治初期の本町通り |
| 江戸時代の城下町は、軍事的防衛としての機能ばかりではなく、藩領国の政治経済の中心地でもありました。生産手段を持たない武士は、食糧などの生活物資を供給する商人や職人を城下町に住まわせたのです。 城下町の都市計画は、町割と呼ばれますが、白河城下の町割は、寛永年間(1624〜43)に初代白河藩主丹羽長重(にわながしげ)によって、小峰城の築城・武家屋敷(郭内・会津町など)の造営とともに実施されました。 ≪白河城下の町割≫ 小峰城の南側から北側にカギ型状に通された奥州街道に沿って、「通り五町」と呼ばれた天神町・中町・本町・横町・田町、これと平行して南側に金屋町・愛宕町・大工町・馬町などの裏町や寺院などが配置されました。 また、本町四辻から棚倉街道沿いには、年貢町・桜町、裏町には、八百屋町・鍛冶町が設置され、城下の出入り口にあたる新町(九番町・七番町・三番町)・向寺には足軽屋敷が置かれました。 つまり、小峰城本丸に近い部分から碁盤目状の武家屋敷、街道に沿ってカギ型状に商人町、その裏通りに職人町・寺町が配置され、当時の士農工商の身分制度を都市計画に反映させています。また、町境ごとに設け、屈折させたカギ型路は、軍事的な防衛を意図しています。 ≪城下の町と村≫ 白河城下の各町は、「町と村」という二つの性格をあわせ持つという特徴がありました。一つの町に町方の支配を行う「町方庄屋」、村方支配を行う「地方庄屋」が置かれるという二層構造の支配が行われていました(下図参照)。 ですから、城下町に集住する商人や職人たちは、商売を行いながら城下に散在する田畑を耕作するという百姓的身分をあわせ持っていたのです。 寛文年間(1661〜73)の白河城下の町人数7,500人余り、武家人口と合わせ城下の総人口は約1万5千人程度と推定されています。現福島県域では会津若松につぐ規模の城下町でした。 今から約380年前に計画された白河市の中心市街地は、現在も随所に城下町の名残をとどめています。 |
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