歴史民俗資料館常設展示
白河の歴史と文化11

近代 ─ 戊辰(ぼしん)戦争 白河口(しらかわぐち)の戦い ─

江戸時代最末期の慶応4年(1868)9月8日、年号が改元されて明治元年となりました。長く続いた将軍を頂点とする幕藩体制も終えんを迎え、日本の近代の幕が明けました。

しかし、この直前に白河を戦場とした戦いがあったのです。慶応4年閏(うるう)4月から7月にかけての約100日間にわたる「戊辰戦争白河口の戦い」です。

薩摩・長州藩を主力とする新政府軍(西軍)と、会津藩赦免嘆願(しゃめんたんがん)で結束を強める仙台・棚倉・福島・二本松藩などの奥州同盟軍(東軍)が、白河で激突したのです。この時、白河藩主阿部氏が棚倉に国替えになった直後で、白河藩領は幕府直轄領、小峰城は藩主不在の空き城でした。戦争直前の閏4月20日会津藩は小峰城を奪取し入城しました。

その後、東軍諸藩は小峰城に集結し、奥州街道を会津に向けて進軍する新政府軍と対峙(たいじ)したのです。閏4月25日、最初の戦いは奥州街道の九番町口(稲荷山)の戦いです。この時、薩摩・長州・大垣藩の西軍を会津藩・新撰組などの東軍が敗退させました(戦死者東軍20人、西軍16人)。

しかし、4日後の5月1日、西軍は九番町口・原方口(はらかたぐち)(立石)・桜町口の三方向から進軍し、圧倒的な武器・火力の差で東軍を白河城下から敗走させました。この戦いは城下全域にわたって繰り広げられ「大戦争」と呼ばれ、多くの戦死者を出しました。戦死者は東軍約700人、西軍約12人。この大戦争により、白河城下は、西軍に占拠されました。

その後の5月から7月まで東軍は、白河を西軍から奪取しようと数回にわたりゲリラ的に攻撃を仕掛けましたが、いずれも敗退しました。この100日間にわたる白河口の戦いで、西軍と東軍の両軍あわせて800人を超える戦死者があり、小峰城や城下町の至る所は戦火に遭い、町民は軍夫に駆り出されたり、逃げ惑いました。

会津白虎隊の悲劇は有名ですが、もう一つの悲惨な戦禍が白河でもあったのです。           
クリックすると拡大図
西軍白河攻撃要図
   (クリックすると拡大図)
赤で図示されるのが、白坂から三方向で
進撃する新政府軍(西軍)の攻撃図。青で
示されているのが、これを迎え撃つ同盟軍
(東軍)の陣配置。5月1日の様子。

戊辰戦争白河口の戦いで焼失した白河小峰城古写真
白河小峰城古写真(個人蔵)
戊辰戦争白河口の戦いで焼失し、
荒涼とした小峰城の古写真。
西軍諸藩戦没者の墓
西軍諸藩戦没者の墓
(本町・長寿院)

仙台藩戦没者223名の慰霊碑
仙台藩戦没者223名の慰霊碑
(女石)
会津藩戦没者304名の鎮魂碑
会津藩戦没者304名の鎮魂碑
(松並)
5月1日東軍戦没者供養碑
5月1日東軍戦没者供養碑
(松並)


前ページへ