| 平安時代中期までの古代白河郡は、現在の白河市と西白河郡・東白川郡・石川郡の三郡と茨城県大子町を合わせた大変広い地域でした。しかし、遅くとも平安時代末期の久安6年(1150)ごろに白河郡は石川荘・高野郡(東白川郡)・依上保(大子町)を分立させ、白河荘(白河市と西白河郡にほぼ相当)が成立したと考えられています。そして、その後の白河荘は、藤原信頼、平重盛(平清盛の長男)、後白河天皇などの皇室や都の有力者の荘園となっていたと推定されています。 このようにして平安時代末期に成立した白河荘は、以後に続く鎌倉・南北朝・室町時代の中世と呼ばれる時代の行政単位となっていきます。 下総国結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、奥州藤原氏を攻め滅ぼした「奥州合戦」に従軍・活躍した論功行賞により、源頼朝から白河荘を賜ったと伝えられています。ここに白河荘と結城氏の関係が始まるわけです。鎌倉時代中期以後になると結城氏の庶子が白河に移住しはじめ、阿武隈川の南岸(南方)と北岸(北方)に郷村の開発を積極的に進めていきました。 白河結城氏の初代祐広(朝光の孫)とその子宗広は、白河荘南方の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとして10程度の郷村を支配し、白河荘北方の地頭職を持つ結城盛広は、富沢郷(大信村下小屋付近)を本拠として同じく10程度の郷村を支配していました。また、金勝寺(荒砥崎)は結城惣領が、関(旗宿)・小田川・田島などの郷村も結城氏の庶子が支配していました。(系図・地図参照) このように、鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団によって、現在につながる郷村の開発が行われていったのです。 |
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| 結城朝光肖像 (茨城県結城市・称名寺所蔵) |
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浮彫阿弥陀像彩色板碑 (白河市本沼字西の内に所在) 阿弥陀如来が二尊浮き彫りされ、これに朱と黒の彩色が施されています。浄土教思想を反映し、死者の極楽往生を願った供養碑として建立されたものでしょう。 (写真右が側面、同左が正面) |
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極楽寺木造阿弥陀如来立像 (白河市板橋・極楽寺蔵) 近年、鎌倉時代中期の建長4年(1252)の墨書銘が胎内から発見されました。鎌倉時代の仏像としては県内で三番目に古い仏像で、鎌倉において制作されたものと推定されます。 |
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